走りながら考える~人生は長いマラソンだな~

無理な背伸びはしなくていい。嫌いなこともしなくていい。できることを仕事にしよう。できないことは諦めろ。気が進まないことも断ろう。好きなことをやろう。今日が人生最後の一日でもOKなように。

休職日記(3)必死で頑張ったら、海外赴任したよ

前回までのあらすじ:

やってもやらなくても同じ、という大企業文化で働く意義をみつけられなくなった私は、転職した。

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希望に満ちて転職し、任された事業に邁進した。
中途だから何も知らない。必死に勉強した。幸い、部下の中に、自部門の商品を語らせたら全社見渡してもこいつの右に出る者はいない、というエキスパートがいた。しかも彼は、とっくにチームや部門を任されてもいい人間なのに、出世には一切興味なく、人に知識を伝えること、助けることを喜びとしていた。競争の激しいその会社では珍しい人種で、だからこそ、皆に好かれていた。彼のおかげで、私は自部門の商品を、学び、熱く語れるようになった。

全社横断のプロジェクトに、事業部代表で出るように言われた。
当時の上司にも期待されていたのだと思う。毎週の会議と、月一の経営陣への報告を、必死で乗り越えた。
経営陣への報告機会もあり、名前を覚えてもらった。

会社で最も大きな事業部(A事業部と呼ぶことにする)にいたが、プロジェクトに参加して半年ほどしたころから、社内の知らない人から電話やメールが突然くるようになった。物流部門がA事業部としての意見を聞きたいとか、顧客センターから、ウェブ情報のミスでクレームが多いのでA事業部で取りまとめて修正してほしいとか...。どうも、「A事業部に相談するなら、ハコさんという人を頼るといいよ」とアドバイスされたらしいのだ。これって、中途の僕からしたら、一人前と認められたってことだ。素直に喜んだ。部門横断の全社プロジェクトに参画して本当に良かった。

しかし、プロジェクトに7割の力を使い、自部門はおろそかになった。
というより、自部門商品は成熟商品でもあり、打つ手が少なかったのもある。
全社プロジェクトで打って出る商品やサービスに力を貸すほうが、充実度が高かった。
それが原因なのか、入社3年目は結局事業部内での評価は、全社プロジェクトで活躍していて会社の仕組みもよくわかり人脈も広げているが、自チームの商品では特に何もやってないんじゃないの?という微妙なものだった。チームの部下も数名会社を去っていった。

そんな中、突然中国赴任の打診があった。
3年目に中国赴任。思ったより早い。自分にとって転機になるかもしれない。
私は、前職でも6年中国滞在。学生時代に留学経験したし、中国語はマスターした。

 

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中国、かつて知ったる土地だ。
急速に変化する中国に、また身が置ける。これも天の計らいだ。

一つ残念なことに、妻は、かの国はあまり好きではない。
私は初めて単身赴任を経験することになる。
今考えれば、二人で行けば、私のメンタルももう少しバランスを保てたかもしれない。

部門としての送別会もそうだが、同僚と部下が個人的に数回開いてくれた送別会が嬉しかった。


そして意気揚々と単騎で乗り込んだ。
当初戸惑ってパフォーマンスも落ちた...(反省)

しかし僕の上司の中国人(中国人が上司になったのは初めてだったが)と信頼関係を築いて、持ち直した。
しかし、正直、当初2年は事件しか起きなかった。

 

つづく