なんと前回の休職日記(4)から、3年3か月のブランク。
大企業に入ったがクソ面白くないので刺激を求めて転職、多忙な日々だが信頼を勝ち得ていき、中国赴任。意気揚々と中国に乗り込んだが信じられない事件に数多く見舞われる。しかしそれを乗り越えて昇進したところまで書いた。
昇格し、そして違う組織に入り、中国の総本部に転勤をした。
そこから雲行きが怪しくなったのだ。
その組織は、日本本社の会長のトップダウンで生まれた組織だった。
経営論で著書も複数ある、知っている人は知っているその会長が、ロジックを突き詰めて考えだした攻めの一手を、私のいる事業部で担うことになった。
BtoBのEC企業。
顧客企業の購買システムと直結させ、顧客の購買発注の大部分を自らのECサイトに流入させるというもの。考えればわかるが、これは簡単ではない。訪問を重ねたところで「はい、では御社とシステムをつなぎましょう」とはならないし、いざシステムを繋ぐとなっても、先方のシステム屋さんとこちら側のシステム担当との長い調整が始まる。技術的な課題は山積みで一筋縄ではいかない。それなのに売上計画の大枠は決まっていて、私ともう一名の二人の部長でそれをすべて達成しなくてはならない。
私は第二営業部(仮称)の責任者になった。
第一営業部はもう1名の部長A(中国人)の担当となった。A部長の第一営業部は、日系の大手企業3社だけを担当し、その3社の言うことは全部聞き(つまり値下げ要求も全部飲む)、利益度外視でまずはシステムをつないでもらえ、という方策であった。赤字垂れ流しでも売り上げが立たなくても、とにかく購買システムに入りこめ!とんでもない要求が来てもこっちは会長直下プロジェクトだ、人もカネも全部つぎ込んでやる!!と、とにかく何があっても全員で突き進むわかりやすいものであった。
私の担当の第二営業部は、その他大勢の日系企業を担当し、同じようにシステムをつなぐということをやるのだが、売り上げがすぐには立たないかもしれない第一営業部の代わりに、システムをつなぐ交渉をしながらもしっかり売り上げは増やせとなった。販売計画もかなりストレッチされたものが出された。しかし第一営業部のような値下げや無理難題対応はしない、という、今考えればかなりやりにくいスキームの中にいた。
しかも、肝いりの事業だから数が必要だと60名の営業パーソンが集められ、そのうち40名が私の第二営業部に配属となった。しかし問題は語学力だった。日系企業担当となったにも関わらず、40名のうち日本人とまともに日本語で交渉できる語学力を持つ人間はなんと1名しかいなかった。そもそも会社全体が「日系企業なんか購買力も小さいし、やっぱり大手の中国系や台湾系の企業からドカーンと大型受注をゲットしようぜ!」的なノリでこれまで来てるのだから、日本企業なのに営業部門の日本語人材が極端に少なかったのだ。(間接部門には日本語人材は大量にいたのだが)
部下40名中39名は日本語ができない。中国語話者の私は、彼らの報告を常に通訳や代弁をすることになった。売り上げがすぐには上がらない、システムをつなぐなんてまだまだ3年も4年も先の話だ。しかし上層部は結果を出せという。頑張れと激励する。私は部下の心を代弁し、報告を通訳し、そして帰ってきた上層部の言葉を翻訳し、部下たちを慰め、私の言葉でねぎらい励ますことを続けた。
4月は売上計画を達成したのだが、「販売品目が偏っているし、本来売りたいカテゴリーではない。そもそも○○と△△は売るな(ともに高額商品群)」とまで言い出した。これで部下の士気は一気に下がった。
「少額商品でどうやって計画を達成すればいいんですか!!」
「こんな計画絶対無理ですよ!高額商品の担当が別事業部になるなんて裏で変な力が働いてますよ!!」
みんな怒り心頭である。
それを経営陣に私は直訴するのだが、二言目には
「会長が決めたことだ。会長の意向に沿うように頑張れ」
というようなことを言われた。
それを聞いた部下たちは、大きなため息をつくしかない。
5月以降売り上げは計画から離脱していく。
方や高額商品を販売する他事業部は毎月計画達成。
私たちの事業部傘下のうち、第一営業部は売上度外視なのでおとがめなし。
計画未達の私の第二営業部だけが毎月売上未達を責められる。
売上未達→原因報告→対策を無理やり練る→実行する→効果がないのでまた売上未達→原因報告→無理やり対策をひねり出す→やっぱりうまくいかない...という負の連鎖が続いていく。
日系企業担当だから、相手の責任者は日本人であることが多い。二言目には「日本人責任者を出せ」となる。そもそも40名中39名が日本語ができないのだから、日本人責任者との交渉はすべて私の仕事だ。携帯電話は鳴りやまず、メールは1日300件、うち150件は返信が必要なもの。毎日深夜1~2時まで働き、3~4時間ほどの睡眠ですぐに出かける日々。土日もほぼ出勤だ。
趣味のマラソンは捨てたくないと土曜日の練習に参加し、午前中30kmLSD、そのまま午後2時から働き始め、気づいたら深夜1時ということもあった。
このころから私は少しずつおかしくなってきた。
深夜に帰っても無性に酒を飲みたくなった。
たまの飲み会で、飲みすぎるようになった。
ある日、マラソン仲間との飲み会で、また飲みすぎた。
私は自暴自棄になったのだろうか、帰りに自転車に跨り猛スピードで上海の街を駆け抜け体を冷やしていた。いま考えれば明らかに飛ばしすぎだ。そして私は突然目の前に現れたバイクと正面衝突して地面に投げ出された。
気づくと周辺は人だかりだ。中国人に囲まれた。
「おい、大丈夫か?」
「なんでそんなスピードで突っ込んできたんだ?」
「おい、血が出てるぞ」
ちょうど眉間から大量に出血していた。
恐らく衝撃でメガネが食い込んだのだろう。
レンズの吹っ飛んだメガネが転がっていた。
持っていたタオルで血を拭き取る。何度拭き取っても血が流れてくる。
しかしもう深夜1時だ、明日は仕事だ...。
私はバイクの相手に、もう大丈夫だ、と伝えてしまった。
「ちょっと座っていれば大丈夫だ」
何度かそういうと、やじ馬も減っていき、バイクのおじさんも、申し訳なさそうに去っていた。
路肩にうずくまり血に濡れたタオルを額に当てている俺。
何やってるんだろう、俺...。
あ、でも明日会社に行かなくちゃ。
僕はゆっくり立ち上がり、歩き始めた。
今日は何時間寝られるかな?
一晩寝たら、傷は治るかな?目立たなければいいな...。
とぼとぼと歩いて、帰った。
その時の、オレンジ色の街頭の明かりに照らされた茶色い街並みを、今でも思い出す。
続く