走りながら考える~人生は長いマラソンだな~

無理な背伸びはしなくていい。嫌いなこともしなくていい。できることを仕事にしよう。できないことは諦めろ。気が進まないことも断ろう。好きなことをやろう。今日が人生最後の一日でもOKなように。

サラリーマンを辞めて思うこと

ふと、気づいたら、

いや、ずっと気づいていたけど。

ブログが10か月も放置されていた。

 

休職日記はちょっと脇に置いといて、その頃と比較して、いまはどうなの?ということを書きたい。

いまだにこのブログもアクセスがちらほら。たまーに覗いてみた方に、「あぁ...この人、力尽きて、精神的にも大変で...今はもういないのかしら、このyoにwa ...」とかいう想像はしてほしくなかった、のです。

 

サラリーマンを辞めて、1年半。

いろんなご縁で、あんなことやこんなことを、やってるのだけど、

仕事をしながら、時折、「やった~!」と思うことがある。素直に嬉しいことが。

 

一緒に仕事をする仲間と喜びを分かち合うとき。

すごいことを成し遂げた事業のパートナーを祝うとき。

僕たちの運営する教育機関に、ぜひ加わってほしいと思っていた人が、「僕、決めました」と言ってくれた時。

そして、歩合の仕事が決まって、結構な金額になって、それが本当に振り込まれたのを確認したとき。

 

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その度に、僕は、「心から喜ぶ」と同時に、「お前、よかったなぁ」ともう一人の自分が肩をポン、ポン...と叩き、労ってくれるような不思議な感覚に陥る。

 

多分、その瞬間、僕は何かに救われている

 

その一瞬の救いがあるから、時に19日連勤なんていうハードなことや、土日も深夜1時まで、みたいなことも(昨日も深夜2時)、耐えられる。

 

サラリーマン時代は、ラスト1年がブラックに染まり、睡眠時間が平均4時間未満で連続8か月。残業160時間を数えたこともあった。(もちろん管理職だから残業手当なんて出ないし。でも給料は良かった。)

 

それ以前も、ホワイトな職場でも、ブラックな企業でも、「心から喜ぶ」ことは、一つもなかった。これっぽっちも。喜びというよりも、「ちょっと嬉しくて」という感じ。「これが俺が望んでいた喜びだ。人生幸せだ」とか「この喜びで一瞬何かに救われている」という感覚は、全くなかった

海外赴任の時も、やりがいは少し感じたが、やりがいというより、期待されているようだから、ちょっと頑張っとこうかな、という感じ。頑張って獲得した当時担当地域で最高金額の受注(FAX一枚w)や、上司の高い評価も、僕を救ってくれなかった。

 

心のどこかで、「だから何なんだ?」と思っていた。

心から、喜ぶことはできなかった。

なぜかというと、結局、「誰かに言われてやったこと」だったからではないだろうか。

 

確かに、いまやっていることも仕事なんだろうね。世間一般的に言えば。

でも、仕事というより、生業(なりわい)に近いのだ。

仕事って、「仕える事」って書くね。

そんなこと、やりたい人いないよ。(妙にTOPを崇拝している人以外)

できるなら、自分で決めて、自分で行動したいはず。

「仕える」って、ほんと、完全に受動的

 

サラリーマン時代に、心から、「おお!おれやったぜ!」って思うことは、少なくとも18年の経験ではなかったな。だって、「仕える事」だったから。

 

大きな受注や、昇格などで、おめでとうと言われて、嬉しい感情は当然あった。

でも、充実感は大きくなかったと思う。

そして、大型受注でも、1枚のFAXがぺらっと届いて、「5億円」と発注金額が書いてあったときも、「ああ、やっと来たか」とほっとしたぐらいだ。

(これが、2%のバックマージンや報奨金があったら、「よっしゃー!今日は飲みに行くぜぇ」となるけどね)

 

そう、いまは、人にどうのこうの言われるよりも、仲間と一緒に力を合わせて驀進している感じ。ほんの数人の仲間だけど、目標に向かって、夢に向かって、走り続けている。

 

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これは、サラリーマン時代とは180度違う、人生

 

いろいろあったけど、ここにたどり着いてよかったと、常々感じている、今日この頃。