前回までのあらすじ:
いわゆるニッポンの大企業で、やってもやらなくても給料はみな同じ、という、生ぬるいところで気が狂いそうになった私は、転職を選んだ。そこでの5年間、もしかしたら頑張りすぎたのかもしれない。
新卒で入った会社で、13年勤めて、転職した。
私は転職当時37歳だった。少し遅い転職かもしれなかった。
しかしあまり気にはならなかった。海外経験もしているし、中国語も完全に使いこなしている。
「奥様は中国人ですか?」とよく聞かれるが、それは違う。
私は、やっぱり結婚は日本人としたかった。妻は日本人です。しかし、日本人でも話も思いも通じないことは多いのですけどね(笑
その転職直前、37歳の私は、90人ほどいた営業部隊の中で、年齢的に下から数えて4番目だったのだ。
海外である程度の責任を持っていたし、部下もいたのだが、帰ってきたら「ペーペー」なのである。下っ端だ。
なぜかって、いわゆるニッポンの大企業は、私より10年ほど先輩の時代、バブル前後で大量に人材を採用しているからだ。私の世代、さらにその下にかけて採用数は減っている。バブルで数千人だったのが、昨今は500名ほどか。それらが自部署に配属されるとは限らないから、5年間新人がいない、てこともある。
そんなわけで6年前に37歳だった私は、当時でも部門内の最年少の部類に入っていたのだ。
これって...年功序列的な要素が抜けきらない職場では、もう、大変な不幸なんですよ。
部下をマネジメントする、事業の責任を取る、そういった経験が人間を成長させる。
同様の経験は、人によっては学生起業で経験する。
しかし、いわゆるニッポンの大企業では、40歳でも部下に持たない人なんてざらだといる。
これではマネジメントという日々訪れる決断を迫ら得る状況は経験できないし、人間の幅は広がらない。
だから、転職した。
希望に満ちて、転職した。
みんながバリバリやってる新しい職場が刺激的だった。
入社していきなり部下がいた。みな年下だ。
前職より女性比率が多い。(業界的にはむしろ女性は少ないはずなのだが)
後でわかったが、配属された事業部の60人のうち、私より年上が4人しかいなかったのだ。
自分と同じ課長クラスは、全員僕より年下だった。
なるほど、成長する会社って、こうなんだ、と思った。
常に忙しい会社だ。リーマンショックを除き、常に前年比10-20%という成長の高さ。
だから、どんどん人が入ってくる。
その中で、去っていく人も多いらしいとは、入社前に聞いていた。
なにせ、中途が7割(?)という会社である。
競争は致し方ない。
人事評価制度はあるけれども、通常、切った張ったの末の勝ち負けは、人事の差配の外で決まるのだ。
その時のトップの考えと、それに追随する人の多さで会社の方向性が決まり、それに忖度できる事業部長&部長クラスがその部下である自分を必要なパーツのひとつ、と思ってくれさえすれば、生き残れる。パーツがきらりと光れば、いずれ重要な役割を担うようになり、経営者への道を歩んでいく。
それとは異なり、前職のニッポンのいわゆる大企業は、その必要なパーツの一つにならなくても、生きていける。石ころでも、座ってそれなりに俺やってる感を醸しだせば、首は切られないのだ。
でも、私は石ころで終わるのは嫌なんだ
マネジメント経験を積んで、経営を学び、事業家として成功するんだ。
この会社で、革新的だった創業者と、それを承継したプロの経営者たちから学ぶんだ。
そう思った私は、覚悟を決めた。
それからこの会社で、前職にも増してさらにガンガン働いた。
中途だもの。頑張らないだめなんだよ
...
そう信じて、頑張った。
つづく