走りながら考える~人生は長いマラソンだな~

無理な背伸びはしなくていい。嫌いなこともしなくていい。できることを仕事にしよう。できないことは諦めろ。気が進まないことも断ろう。好きなことをやろう。今日が人生最後の一日でもOKなように。

休職日記(1) 退職願を出した

この日はいつか訪れるはずだった。

それは、会社を休んだ時からわかっていたはずだ。

いざその日になってみて、「そうか、俺やめるんだな」と、退職願を目の前にしてやっと実感を持った。

 

4月中旬、退職願を、出した。

 

f:id:qkp:20180724000911j:image

 

昨年9月から、今年4月まで、8か月も会社に行かなかった。

 

ここだけ読むと、「なんだこのサボリーマンは...」と思われても仕方ない。

それは誤解です。

行きたくても、行けなくなった、というのが正しい。

 

そう、私は、昔なら考えもしなかったのだが、心が折れてしまう経験をしたのです。

 

今振り返ると、貴重な経験でした。

 

よく言いますよね

「俺は絶対うつ病になんかならねぇ!」と言っている奴に限って、「うつ」になると。

私は、まさにその「俺はうつ病なんて」という側だったんです。

 

いくらなんでも俺は違うだろうと。

 

これまで苦しいことはあったけど、自分で道を切り開いてきたという自負があった。

いや、それはおこがましい。重要なポイントで、不思議と助けてくれる人が現れて、運よくここまでこれた。

 

少し振り返らせてください。

 

小学生から中学生は、背が小さくて肩身が狭かった。

高校生は陸上部で走ることが唯一の自己表現で、授業は退屈だった。

第一志望の大学は落ちた。合格すると思って入学金を持参して新幹線に乗って合格発表の掲示板を見に行った。

何度見ても自分の番号がなかったのは、ショックだった。

 

だったら、もっと難しいところを狙おうと思った。浪人して、現役の時では無理だった学校に入られた。その時は論文などの2次試験対策を徹底的にマンツーマンでやってくれる先生と出会うことができた。彼女がいなければ、合格はなかった。

 

大学では貴重な友人を得ることができたが、金銭的に苦しく、バイトばかりしていた。

中国からの留学生と仲良くなり、彼の実家に遊びに行った。初めての海外旅行が中国だった。23年前の中国の街は臭いし汚かった。でも活気があった。人々が元気だった。漠然と中国留学を考え始めた。

 

大学4年次、「日中政府交換留学生」、の掲示を見つけた。

中国語能力をすでに有する日本人を、中国政府の負担で希望の大学に留学させる」というものだった。日本政府も中国人学生に奨学金を出す、相互の留学だ。

 

私は、中国語は大学1年時に第二外国語で基礎を学んだだけ。大学4年次ではすっかり忘れ去っていた。

しかし、ゼミの教授が勧めてくる。「ダメもとで受けなさい」と。

そして面接に挑んだが、中国語の面接では全く意思疎通もできないレベルだった。しかし、何の間違いか、合格してしまったのだ。(いまでもなぜ受かったのかはわからない)

ゼミの教授が進めてくれていなければ、やはり、今の私はいない。

 

そして私は、日中交換留学生として中国へ行った。単位互換がなかったので、2年留学したら、そのまま2年留年した。浪人を合わせると3年遅れだ。

 

中国では当初言葉が全く通じず孤立状態になった。しかし、中国人の友人がたくさんできた。何とか言葉を習得して、帰国して就職した。

超氷河期だったが、その年は、中国人材には追い風が吹いた。2001年の中国のWTO加盟を控え、企業がマーケットとしての中国を強く意識し始めた時期だった。

 

就職先はいわゆるニッポンの大企業で、中国び関わる仕事は豊富にあった。しかし、やってもやらなくても給料はみな同じ、という、生ぬるい文化に、気が狂いそうになる。中国勤務も経験したし、中国でのある地域の代表もやった。大きな受注も取った。しかし、この会社でのキャリアアップの限界を感じた。

 

13年勤めて、退職した。転職先は、成長を続ける会社だった。

 

成長する会社での新たな仕事に、私はわくわくしていた。

転職当初から頑張った。しかし、いま考えれば、それから5年間は、少し頑張りすぎたのかもしれない。

 

つづく